キリスト教Q&A4
 
キリスト教会・新興宗教について

Q21 カトリックとプロテスタントの違いについて教えてください。また,教派はなぜあるのでしょうか。
Q22 歴史を学ぶと、キリスト教が争いの種になっているようなこともありますが、どうなのでしょう
Q23 家庭訪問をしてパンフレットなどを販売している「エホバの証人」はキリスト教なのですか
Q24 文鮮明を教祖とし、集団結婚などをしている「統一協会」はキリスト教なのですか
Q25 モルモン経典を信じている「モルモン教会」はキリスト教なのですか
Q26 正統的なキリスト教会と異端とではどのような違いがあるのですか

 
Q21 カトリックとプロテスタントの違いについて教えてください。また,教派はなぜあるのでしょうか。
キリスト教会には、多くの教派があります。しかし、他の宗教、例えば、仏教などのように、宗派に分かれているのではありません、、仏教などは宗派によって、経典や教典も違い、教えも異なりますが、正統的なキリスト教の場合は、いずれも一つ聖書を正典として用い、信仰の土台としています。ですから、どの教派に属していても、信ずる対象は唯一のまことの神ただお一人であり、神の子イエス・キリストを私たちの救い主と信じる信仰に変わりありません。

もともと新約聖書に記されているような初代教会の頃には、教会はまだ小さな群れであり、現在のような教派もありませんでした。

そしてキリスト教は、やがてローマ帝国の国教となるのですが、こうして受け継がれていった教会は、中世になると教職者の優先や階級制度が取り入れられたり、ローマ皇帝との権力争いをするなど教会の権威を強大にすることに力を注いで、聖書の権威が軽んじられるようになってきました。

カトリック教会が、「人はカトリック教会の教理・制度、組織によらなければ救われない」と言って聖書の権威を軽んじたり、罪を償うために「免償符」を売買するなど、しだいに聖書の教えから離れてしまっている教会のあり方を問い直して宗教改革運動が起こり、カトリック教会からプロテスタント教会が生まれたのです。

そして、プロテスタント教会の中でも、マルチン・ルターの流れをくむルーテル派、ジャン・カルヴァンの流れをくむ改革派、長老派、また英国教会からはピューリタン(清教徒)など、教会政治の形態や礼典(洗礼・聖餐)の方法、聖書解釈の違いなどによっても教派が分かれていったのです。

こうして分かれた、それぞれの教派は、決して人間中心の党派的な分裂ではありませんでした。むしろ、聖書の教えに従おうとする教会改革から生まれてきたといってよいでしょう。

戦前、日本においても天主公教会、ギリシャ正教会の両カトリック教会以外に、いわゆるプロテスタント教会に属するものは30数派ありました。それが戦争中、国家の統制政策によって前記の二つのカトリックと日本キリスト教団と聖公会の4教団に統合させられたのです。

ところが、戦後日本キリスト教団からいち早く脱退して、日本キリスト改革派教会が設立したのをきっかけに、続々と教団を脱退するグループが表れました。また、外国からの宣教師による活動も活発に行われて、現在ではその数も百を越えるほどになっています。

しかし、教派がたくさんあっても、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ一です(エペソ人への手紙4章5節)。どの教派に属している教会もキリスト者も、ひとりの神によってその信仰を与えられ、神の救いの恵みに生きるように召された人たちです。ですから、私たちは教派を越えて、国籍や民族の違い、性別の違いなどを越えて兄弟姉妹と呼び合い、祈り合い、仕え合うことができるのです。キリスト教の違う教派の人も、イエス・キリストを私の救い主と信じています。この信仰は、父なる神によって与えられたものです。

「改革派教会」というのは、神によって改革された教会神によって改革され続ける教会という意味です。私たちの教会は、聖書によって常に自らを吟味し.、自らを改革し続けていこうとしていく教会でありたいと願っています。

キリストの教会がいろいろな教派に分かれているということは、人間の間にいろいろな個性があるのとよく似ています。それぞれの個体を生かしながら、ひとりの父なる神を神として、聖書のみことばを唯一の規準として、神の前に自らの罪を悔い改めつつ、神に従っていこうとしているのです。

しかし、これまでの教会の歴史を振り返ると、教会において分裂抗争が起こったり、それが多くの血を流すようなことになるということも少なくありませんでした。このことをだれよりも悲しんでおられるのは神様ご自身でしょう。これは旧約の時代からそうでした。

神の民として召して下さった人々が、神に背いてしまうのです。しかし、それにもかかわらず、人間の罪にもかかわらず、神は人間を愛してくださいました。そして、教会を通して、キリスト者を通してそのみこころを実現してくださいました。人問の罪にも関わらず、その妨害にも関わらず、神様はそのみこころを実現して下さるのです。それがこの歴史の物語っているところです。
 

Q22 歴史を学ぶと、キリスト教が争いの種になっているようなこともありますが、どうなのでしょう
キリスト教会は,どの教派にある人たちも,「使徒信条」において「われは公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白しています。

「公同の教会」とは、恵那教会なら恵那教会のことだけを考えているのではありません。教派を超えて,国籍を超えて,民族や境遇の違いを超えて,さらには時代を超えて、神様によって導かれた神の民の群れをひとつの公同の教会(見えない教会)と信じているのです。教派に別れていても,あるいは国籍や時代が違っていても私たちはひとつだという信仰がここにはあります。

キリスト教信仰は,このように違いを超えて私たちを一つにつないでいく性質を持っています。ですから、あれは○○派だからということで攻撃したり,敵対したり,排除したりするということは,信仰から生まれてきたというよりは,人間的な権力争いや,感情のもつれや、聖書の教えから離れてしまった結果起こってきたものと考えられます。

次のフランシスコの祈りこそ、キリスト者の祈りであると思います。

「主よ、私を、あなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、悲しみのあるところには喜びを、
もたらすことができますように」。
 

Q23 家庭訪問をしてパンフレットなどを販売している「エホバの証人」はキリスト教なのですか
「エホバの証人」は、米国で1870年にチャールズ・T・ラッセルによって創立された新興宗教です。「輸血拒否」事件などでよく話題に上ることもあります。

エホバの証人では,救われるためにはエホバの証人の組織に従うことが必要であり、このためにかなりの時間を割いてパンフレットを売り歩くということもしているので、エホバの証人となった家庭の主婦が、家庭の家事も育児も放っておいてエホバの証人のために出かけていくということで、これまで幾人ものご主人方から相談を受けたことがあります。

エホバの証人では、事実上、神ではなく統治体(エホバの証人の組織)が信仰の対象となり、信仰によって救われるというよりは,エホバの証人の組織の命令に従うことによって救われるということになっているようです。組織内部にはランク付けがあって、上に上がるためには,あるいは救われるためには非常に厳しいスケジュールをこなさなければなりませんから、精神的にも肉体的にも疲れ果てている人が多いように思われます。

4世紀に異端とされたアリウスの説にならって,イエス・キリストは神ではないと主張しています。キリスト教とはイエスが神のみ子であり、キリスト(救い主)であると信じる宗教ですから,エホバの証人はキリスト教とはいえません。

ラッセルは、1914年にハルマケドンと呼ばれる所でサタンの軍勢との戦いが起こり1915年に世界は終わると予言し、その終わりのときまでに十四万四千人の「エホバの証人」があつめられ、この世の政府とこの世の人々は滅ばされて、エホバの証人が新しい世界を統一するようになると預言しました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしたのです。

エホバの証人の聖書解釈は,神について,罪について,救いについて,いずれにおいても伝統的な教会の教えとは根本的に異なっています。詳しくは「キリスト教の異端について」(恵那教会パンフレット4)をご覧下さい。
 

Q24 文鮮明を教祖とし、集団結婚などをしている「統一協会」はキリスト教なのですか
統一協会は、統一協会は、正式には「原理福音世界統一神霊協会」という長い名称です。沿革は1923年ごろ、当時韓国の平壌に住む李竜道、黄国柱という二人の牧師が、「自分たちは、今までと違う新しい聖霊を受けた」と言って、「血分け運動」を始めたことに始まります。

それは、「人類の母なるエバは、へぴのようなサタンと姦淫して、サタンの血を受けた。それ以来、人類はだれでもへびの血を受け継いで汚れているから、新しい聖霊を受けた私の血を受けよ。そうすれぱきよめられて、原罪のない子どもが生める」というものでした。そして彼らは、それに共鳴する女性たちと肉体関係を持つようになりました。

1945年、太平洋戦争が終わり、朝鮮半島が38度線で分断されたころ、平壌の朴其姑から、文鮮明が血分けを受けて、この群れのリーダーになりました。彼はすでに妻子がありましたが、クリスチャン女性金具女を誘惑して、血分け行為にふけっていたところを金女史の夫に見つけられ、告発されて逮捕されました。裁判の結果、姦淫の現行犯として文鮮明は懲役5年十カ月の判決を受けました。

1952年9月、朝鮮動乱に際して、国連軍が北上したころ、彼は刑務所から釈放されましたが、警察の取調べを受けた時、文鮮明は、「迫害、暴行、拷問のすえ、私は死んだが奇蹟的に復活した。イエスは、十字架上に敗北の死をとげてそのままになったが、私は復活したから永遠に生きる。私こそ再臨のキリストである」と言ったといわれています。

文鮮明は、新約聖書は不完全である。そして、今わたしが説く原理講論は,旧・新約聖書の欠けを満たす成約聖書であり,完成された聖書である」というのです。

聖書を採用していながらこのようなことを言うことは,それ自体矛盾です。
聖書がはっきり教えていることは、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(ヨハネの黙示録22:18,19)ということです。

66巻の聖書に「新しいことを付け加えても,これを削除してもいけない」ということを忠実に守っているのがキリスト教会ですから、「私は新しい教えを発見した」などといって聖書に加えようとするのは間違っています。

統一協会の教えについて詳しく説明するスペースはありませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見分けるために一つのかぎがあります。それは、イエス.キリストをだれと言うか、を見ることです。
イエス・キリストをとおして神が歴史の中でただ一回限り、決定的な仕方でご自身を啓示されたのだ、イエス・キリストこそ神の絶対的な仲介者だと信じるのがキリスト教です。

もしイエス様の救いのみわざは不十分であって、それを他の誰かが完成させるというような教えであれば、それはもうキリスト教ではありえません。
 

Q25 モルモン経典を信じている「モルモン教会」はキリスト教なのですか
モルモル教会は、正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」といわれ、本部は、アメリカのユタ州ソルトレークシティーにあります。

1830年、ジョゼフ・スミスによって創立された新興宗教です。
「モルモン経」は、元来はアメリカにソロモン・スポールディンクという人がいて、「アメリカ人はイスラエル民族の分派である」と思い込んで、彼の幻想のおもむくまま、一種の歴史小説を書きました(1812年)。しかし、だれもそれを取り上げてくれない時、ジョセフ・スミスがその原稿を安く買い取り、オリヴァ・カウドリとマーティン・ハリスに執筆させ、1830年に出版したものです。

この二人の助手は、始めの頃、「自分たちはその金盤を見た」と証言したのですが、あとで、『あれは嘘だった』と前言をくつがえしてモルモン教会より脱会しています。

スミスは、「この経典は、421年から827年まで、クモラの丘の土中に秘蔵されていた」と主張していますが、モルモン経の中には、ジェームス王(1566?1625年)の命による英国欽定訳聖書(KJV)の訳文そのままを、一千か所も引用していることで、自らのウソを暴露しているようなものです。

スミスは、その後も次々と啓示を受けたとして、「教義と聖約」、「高価な真珠」などを書かせました。モルモン教会の看板の中には,聖書を横に倒して,モルモン経に手を伸ばしている絵が書かれたものがあります。彼らは、聖書,モルモン経,教義と聖約,高価なる真珠の4つを権威ある書物であるとしていますが,実際には聖書を除いた3つが基準になっているということができます。

彼らの信じる神は肉体を持つ多神教の神であり、アメリカインディアンやアフリカの黒人たちは神に呪われた人種であると考えられています。アダムの罪は子孫には受け継がれず、キリストの十字架は一般的な救いを与えるのみで,本当の救いは,(モルモン教の教える)おきてと儀式を行わなければならないといわれています。

神,罪,救いのいずれの面においても聖書の教えとは根本的に異なる教えとなっており、これもキリスト教ということはできません。
 

Q26 正統的なキリスト教会と異端とではどのような違いがあるのですか
ダイヤモンドの鑑定士が,本物と偽者を見分けるようになるためにすることは、本物のダイヤモンドを見つづけることです。どれが本物でどれがにせ物であるのかを見分けるためには、やはり本物を見つづけることでしょう。

わたしは、この日本に於いてオウム真理教やいかがわしい新興宗教がはびこってくることの背景には、キリスト教会の責任もあると思っています。聖書の真理を日本の多くの方々に伝えきれていない。そして多くの人々がまさに飼う者のいない羊のようにさまよっている有様を見るのです。

キリスト教の異端は,今に始まったことではなく,聖書が書かれている時代にもあり,いつの時代にもあったことが分かります。その時代の新興宗教として現れては消滅し,また別のものが名前を変え,形を変えて出現するということの繰り返しでした。

正統的なキリスト教会と異端の違いについても短いスペースでは十分な説明ができないかと思いますが,ポイントになるところだけ紹介しますと、

キリスト教の異端とはワンポイント

1、信仰と生活の規準である聖書の権威を軽んじて、独自の経典を作ってそれを聖書と同等ないし聖書以上の権威を与えます(聖書のみを否定)。

2、神が三位一体(父、子、聖霊の三つの人格を持ち、しかも唯一の神)の神であることを否定して、多神教的な思想を説いたり、主イエス・キリストの神性を否定するものは異端です。

3、聖書は、すべてイエス・キリスト(による救い)を指し示し,キリストだけが救い主であると述べていますが、キリスト以外に独自の救い主などを作っているものは異端です。

4、自分(のグループ)だけが正しい,他の教派はみな間違っている,などという考え方は聖書からは出てきませんから,こうした狭い見方しかできないものはちょっと怪しいと考えたほうがよいでしょう。
 

 
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