キリスト教Q&A5
 
信仰生活について

Q27 祈りとはどういうことですか
Q28 毎日の生活の中でどう祈ったらよいのでしょうか
Q29 キリスト教では先祖を大切にするということをどのように教えていますか
Q30 どうすれば「神の呼びかけ」とか「みむね」がわかりますか
Q31 神様の愛を知っているはずの信者がなぜかげ口を言うのでしょう
Q32 神が愛の神であるならなぜこの世の中には苦しみがあるのですか
Q33 外国ではクリスチャンが大勢いるのに、どうして日本ではクリスチャンは少ないのでしょう。
Q34 日本人は一般的に言って「個の確立」ができていないといわれていますが、これはキリスト教の普及とも関係があるのでしょうか
Q35 信仰と生活はどのようにかかわっているのですか

 
Q27 祈りとはどういうことですか

クリスチャンでなくても、手紙を書いた中に、「・・・お祈りしています。」という文章を入れることがあると思いますし、大学受験の子供の合格発表の時には祈る気持ちになったり、重い病気になったとき,会社が倒産の危機に陥ったときなど、私たちは何者かに祈りたい,すがりたいという気持ちになることがあるのではないでしょうか。

キリスト教の祈りは、先に記したような神様に祈るということが大きな特徴です。祈りはこの神様との対話であるということもできます。

しかし,私たちが祈りの出発点になるのではありません。私たちが神を知ることができるのも,祈る心やあきらめない信仰や感謝,愛のわざなどに導かれていくのも,実は神様が出発点であり,神様が与えてくださったことに気づかされます。

聖書の信仰をもって生きた人の祈りをよく見ていくと,それはみな,神様が語ることを聞くことから祈りが始まっていったことが分かります。

詩篇5015節には「それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。」という言葉があります。あるいは、1テサロニケの手紙517節には、「絶えず祈りなさい。」といわれています。私たちにいのちを与え,育み,毎日の生活を守り支えていてくださる神様は、私たちに応答を求めておられます。

「愛の反対は無関心である」とある人は言いましたが、私たちを愛してくださっている神様は、私たちもまた(無関心ではなく)互いに愛し合うことを求めておられるのです。

Q28 毎日の生活の中でどう祈ったらよいのでしょうか

聖書には、「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)と言われています。

あるいは、あきらめないで熱心に祈り続けること(ルカ18:1)、戸を閉じて,密室で、神様と向き合って祈ること、祈る心を教えたパリサイ人と徴税人のたとえ(ルカ18:9〜14)など、祈りについては多くのことが教えられています。

そして、弟子たちが「祈るときにはどのように祈ったらよいのでしょうか」と尋ねたときにイエス様は、「主の祈り」を教えてくださいました。

祈ることは関心を持つことです。坂本九さんの「上を向いて歩こう」という歌がありますが、心を上に向けて,神様を仰ぎながら生きることが祈りであるといってもよいでしょう。

大切なことは、心を神に向けて,自分の心のうちにあるありのままを神に申し上げることです。他の人に聞いていただくというよりは、私たちの思いを知っておられる神に祈るのです。祈りには、感謝、賛美、訴え、願い、求め、告白、とりなしなど,さまざまなことがあると思います。

そして祈り,み言葉を聞く中で、私たちは自分の願いではなく,神様の願いはなんだろうか,神はどんなことを喜んでくださるのだろうかということを求めつつ祈るように示されていくと思います。これまでは自分が神のようであったのですが,これからは神を神として生きていくことを教えられるのです。

Q29 キリスト教では、先祖を大切にするということをどのように教えていますか

聖書には、「あなたの父と母を敬え」という言葉があります。
私たちは、父と母によってこの世に生を与えられ、育まれてきたわけですから、両親を敬うのは当然のことです。
しかし、この言葉は、単に両親のことだけではなく、自分よりも目上の人や先輩、祖先を敬うことを教えています。

  このことについてのハイデルベルク信仰問答の104問にはこのようにいわれています。
ここで神が私たちに望んでおられるのはこういうことだというのです。

 「わたしが、私の父、母、および、わたしの上に立つすべての人々に対して、一切の栄誉と愛と真実とをあらわし、みずからを、正しい服従をもって、すべてのよい教えと罰とに服させ、彼らの過ちをも忍ぶことであります。なぜならば、神は、彼らの手を通して、われわれを支配することを、望んでおられるからであります。」

  目上の方を敬い、従うことを神は望んでおられるのですが、私たちにとって、最も目上の方は誰かといえば、私たちをお造りになった神様ですから、私たちは聖書に基づいて、何を神は望んでおられるのか、何を喜ばれるのかということをよくわきまえ、祈り求めていく必要があります。いかに目上の人の命令であるとはいえ、神が悲しまれるようなことはすべきではないのです。

  例えば、かっての戦争では、人間の愚かな罪のために、国籍や民族の違いを超えて、実に多くの人々の血が流されました。今日でも、自殺、虐待、いじめ、暴力、などによって多くの人々のいのちが奪われたり、差別や偏見などによって人の心を踏みにじるようなことが行われていくことがあります。また、神によって命を与えられ、育まれてきた人たちが、神を忘れて、偶像を祀るようになることも神様のみ心を悲しませることです。このようなことを避けて、私たちは真実な意味で父母や先輩たちを尊敬していきたいと思いますし、子供たちからも敬われるような人格を培っていきたいものです。
Q30 どうすれば「神の呼びかけ」とか「神のみむね」がわかりますか。

神様は,あくまでも自分を超えた存在であることをわきまえてください。そうすると,自分の判断や推測によってではなく,神によって教えられなければこれは分からないことに気づかされます。すなわち、神の言葉である聖書によって、啓示によってはじめて私たちは、神がどういうお方であり,神のみこころが何であるのかということを知ることができるのです。

神のみこころを実感として分かるようになるためには、礼拝や祈りの経験が必要になるでしょう。神の前に静かに自分を振り返るという習慣をつけると,少しずつ「神のみこころ」が分かるようになってきます。

そして,神様が願っていると思ったことをやってみましょう。それで心に深い喜びを感じたなら,それは神の前に正しい判断だったのです。神様は、私たちに表面的な喜びではなく,存在の根源に触れるような深い喜びを私たちに与えてくださいます。

Q31 神様の愛を知っているはずの信者がなぜかげ口を言うのでしょう

キリスト教会に集まるような人は,みんな清い人たちだ,と思っている人も少なくないと思います。そして実際に教会に行ってみると、こうした陰口や苦情を聞いてショックを受けるという方もあるかもしれません。

イエス様は、「医者を必要とするのは病人です。私は正しい人を招くためではなく,罪びとを招くためにきたのです」(マタイ9:12)といわれました。パウロも正直に自分のことを振り返って、「わたしは自分がしたい善は行わず、したくない悪を行っている。善をなそうとする意志はあるのですが,それを実行できないのです。」(ローマ7:18、19)と告白しています。

教会においても,ついつまらないうわさ話を交わしたり、陰口をたたいたりなどして,しかもそれがどんなに人を傷つけるか、ということに気がつかないでいたりすることもあります。あるいは,嫉妬やえこひいきなどをしてしまうこともあります。

そういう私たちだからこそ,教会にきているんだということを覚えましょう。大切な事は、神様と自分との関係を深めていくことです。そうすると、自分を棚に上げて,人を批評するようなことは慎むようになります。

イエス様が私たちにお命じになったことは、「互いに愛し合う」ことでした。「私があなた方を愛したように,あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば,それによってあなた方が私の弟子であることを,みなが知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:34,35)。

「私があなた方を愛したように」とあるように、聖書を学び,それを理解するようになると,神様が私を愛してくださっていることを知ります。そして、イエス様が私を愛しておられるような「愛」にふれるようになるのです。

イエス様が愛されたような「愛」とは,どういうことでしょうか。あなたも聖書を読みながら,自分に当てはめて考えてみてください。自分自身がこのような神様の愛に触れること,神様の愛を身近に感じていくことが,この問題の解決になっていくと思います。人が変えられていく世界があることを、人にはできないが神にはできるという世界があることを体験してください。

Q32 神が愛の神であるならなぜこの世の中には苦しみがあるのですか

聖書によれば、人類がおかれた世界にはもともと苦しみがあったわけではありません。神が私たちに与えてくださったエデンの園といわれる世界は、苦しみも恐れもない世界でした。

ところが、人間の始祖であるアダムとエバが神に背いたために、この世界には罪が入り、死が入り、恐れや苦しみが入ってくるようになりました。罪のために私たちと神との関係が、以前のような正しい、親しい関係ではなくなってしまったのです。

罪のうちにある今の私たちは、神様が最初に造られた様な本来の人間の姿からはかけ離れています。人は神とともにいのちの恵みにふれて生きるように造られたのですが、私たちは自然に主なる神を礼拝したり、神様を求めたりしません。かえって、神様なんかいなくてもやっていけると思い込んでしまったり、自分のために(自分に仕える)偶像を作ったり、自分が神であるかのようにふるまっているのです。ここに罪の本質があります。

親が子供のためにいのちを与えてくれたり、生きるために必要なものを整えて、一生懸命に育ててくれても、感謝もせず、無関心で、心を向けようともしない子供がいたらどうでしょうか。私たちは神様に対してこのようにしているのです。神の恵みなしには私たちは一瞬たりとも生きられないものであることを忘れてはなりません。

この世に苦しみや、さまざまな問題がある根本的な原因は、私たちのうちに罪があること、そして私たちと神様との間の関係が損なわれていることにあります。

しかし、聖書には、神はこのような罪と死の内にあるもの、神様にも自分にも、人にも罪を重ねてきた私たちを愛して、私たちが本来のいのちの世界に生きることができるように、人間らしい生き方を取り戻していくことができるように、神様が働いておられることが語られています。


  また、聖書には、「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。」という言葉があります。神様は、私たちにとって苦しむことが必要だから、それを与えられるという面もあるでしょう。病気になって初めて、病気の人の気持ちが分かります。何もかも自分の思い通りにいくような人生を送った人は、傲慢になり、自分をも欺き、人の気持ちも分からないようなことになってしまいます。
Q33 外国ではクリスチャンが大勢いるのに、どうして日本ではクリスチャンは少ないのでしょう。

食べ物の場合、食べたことがないのに、食べようとしないのを食わず嫌いといいますね。日本人の多くの人々の心には、キリスト教は日本の宗教ではないという先入観のようなものがあって、キリスト教を知らないままに受け入れようとしない、あるいは批判的に見る人が大勢あるように思われます。

日本に最初にキリスト教が伝えられたのは、1549年、フランシスコ・ザビエルによってでした。当時の日本の大名であった織田信長などは、珍しいものを提供してくれる宣教師を歓迎しましたが、しだいにキリスト教が広まるにつれて、キリスト教は危険思想として弾圧されるようになっていきました。鎖国をした大きな理由は、キリスト教を排除するためであったといってもよいのです。

その理由は、聖書自身のうちにあるとともに、当時の日本の指導者たちのうちにあります。当時の日本の指導者たちは、封建思想のなかで、お上に背いてはならない、という日本の社会秩序が、キリスト教が広がることによって根底から覆されることを恐れたのです。

聖書には、神は唯一であり、すべての人は、それが王様であれ、大名であれ、どんな人であれ、主なる神に聴き従うべきことが求められています。このために、クリスチャンになった大名が、私は神にしたがうので、人殺しをするようないくさには協力できない。年貢を必要以上に取り立てるべきではない。などということを言い出したのです。

それで、このような教えが広まっていけば、人々が指導者の言うことを聞かなくなるということを恐れたのです。

  鎖国が終わり、明治時代になってからも、日本政府の方針は、天皇制を軸にした日本社会を築いていくという方針を立てました。特に戦争に向かう中で、治安維持法などが作られて、キリスト教はここでも迫害の対象となりました。

かって、4人組制度が作られたのも、クリスチャンを監視させることが大きな理由でした。このような歴史を通ってきたために、今日でもキリスト教を正しく理解している日本人は少ないのです。よく知らないで、キリスト教は外国の宗教だ、などという先入観で批判することがあります。これは非常に残念なことです。


Q34 日本人は一般的に言って「個の確立」ができていないといわれていますが、これはキリスト教の普及とも関係があるのでしょうか

外国に行って、これは日本人として改善していきたいと思うことの一つは、「個の確立」であると思います。外国に行くと、あれは日本人だ、ということがよく分かるといわれます。パーティなどにいっても、日本人は日本人同士でかたまって、それも片隅の方で目立たないようにしていて、あまり話すこともない。話していても自分の意見をもっていない。という印象が強いと言われています。

なぜこうなってしまったかといえば、私たちは、あまりにも自分の考えや生き方を、周りの人に合わせるという仕方で過ごしてきて、そのやり方が身についてしまっているようです。周りの人がルーズソックスをはいていれば自分もそうする。周りの人が流行の服を着ていれば、自分もそうする。周りの人が戦争のために熱心であれば自分もそうする。というように、常に自分は集団の中に埋没させて、流行に流されていくというような生き方になっているのではないでしょうか。

こうしたところでは、自分が何かということがわかりません。自分の価値観や自分が生きる目的や生きがいというものも相対化されていきます。

あなたも、これまでの生活の中から、自分を含めて、人間の心は移ろいやすいものだと思われるのではないでしょうか。時代によって、育てられた環境によってこれはずいぶん揺れ動くものです。このように揺れ動くものを基準にしておれば、私たちの人生の生活の軸もいいかげんなものであって、揺れ動くことになります。

神の言葉である聖書は、私たちを写し出す鏡ですから、聖書を通して私たちははじめて自分を見つめ、本当の自分と出会い、自分らしく生きること、人間らしく生きることを教えられていくのです。聖書が教えている神が、どんなに深く、大きな愛を持って私を愛していてくださるかということが分かるようになります。

それはそのまま、自分を愛すること、他者を愛することにつながっていきますから、聖書の神と出会うことによって、人権の思想、福祉の思想と実践がここから生まれてくるのは必然的なことです。

Q35 信仰と生活はどのようにかかわっているのですか

現代は分裂させようとする力が強く働いている時代です。青少年のいじめや犯罪、親による子供の虐待、自殺の増加がこのことを物語っています。

これに対して、信仰とは、信じるに足るものを持っているということであり、信頼関係を持っている人が信仰者と呼ばれます。

信仰において最も重要なことは、信仰の対象がどのようなお方であるかということです。日本には「いわしの頭も信心から」ということばがあるように、いわしの頭でも何でも信心する心が大切だという考え方がありますが、これは信仰の考え方ではありません。信仰を持つとは、「私はこの方を信じる」という、自分が確信を持って信じている信仰の相手を持っているということです。

神様は、私たち人間を信じて生きるものとしてお造りになりましたから、私は何も信じるものがない。信じられる人がいない、というような人生にはむなしさを感じるものです。私はどの人も例外なく、心の奥底で求めているものは、自分が信じられる人、信頼して喜びや悲しみをともにしていける人を求めているのだと思います。

赤ちゃんとして生まれたときには、無条件で親を信頼します。でも、大きくなるにつれて、親にもいろいろと限界があることに気付かされます。好きな人が出来て結婚したときには、もちろん信頼して結婚するのですが、結婚生活を続けていくと、相手のいやな面が気になってくるということもあるでしょう。

  人格のないものは、私たちの喜びや悲しみを理解することは出来ませんから、これは信仰の対象にはなりません。また、死んだものや私たち人間のレベルよりも低いか同じ程度のレベルのものは、信仰の対象にすべきではありません。私たちは人間をはるかに超えたまことの神を神として歩んでいきたいものです。。

また、信じたけれど裏切られてしまった、信じたけれど人生がおかしくなってしまった、ということでは、それは正しい信仰の対象を信じたのではなかったのです。

私たちは、自分が心の中で求めつづけてきた、まことに信じるべきお方に出会い、この方をわが主として生きるようになると、それは、その人の生活のあらゆるところに影響を及ぼすようになります。

聖書のガラテヤ人への手紙5章22節以下には次のように言われています。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。


 
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